スタッフ
金井 裕
私は群馬県高崎市で塗装業を営む両親の二男として産まれました。兄・姉・私の三人兄弟。
覚えている限りでは、私が幼稚園の時、親父に一緒について行った場所が初めての「現場」でした。
山奥にあった小さな橋の塗り替えです。
小学校に進み、いろいろと物事を理解してくる年頃になりました。
その頃には、毎朝親父の会社に通ってくる何人ものゴツイ職人さん達に囲まれて生活をしていました。
私は「ゆたか」と呼ばれ、「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」などの挨拶はこの場で身に付けた記憶があります。
その時は、全くもって塗装職人になろうとは思っていませんでした。
そして、中学に入学し、私はスポーツに夢中になりました。バスケットボールです。
とは言うのも成績がイマイチだったので・・・(苦笑)
たまに親父の塗装の仕事を手伝いながら楽しく中学校生活を過ごしました。
中学三年も終わりに近づくとだんだんと私は反抗期になって両親のいう事に反発しました。
高校受験も志願校に合格する事は出来ませんでした。
独立まで
15歳からこの仕事に飛び込み、晴れて社会人です。
初めは、現場で材料運びや清掃を毎日朝から晩までこなしていました。
現場は戦場です。
アルバイトの時とは違いました。「これが本当の現場か!」と毎日が新鮮な日々でした。
見習い期間の3年が過ぎ、仕事にも熱が入り出した18歳の時でした。
「親父の会社から離れ、絶対に独立をする!!」と決めました。
当時の理由は、正直すごい想いはなかったでしょう。
ただ「社長」というものに憧れていただけなのかもしれません。
それから6年が経ち、いろいろな変化もあり独立する意欲も少し消えかけていた時でした。
24歳になり、親父に独立を勧められました。
現場から帰り、倉庫で仕事の段取りをしていると「そろそろ独立をするか?」と言われ、
「うん!わかった!!」と軽々とふたつ返事で答えました。
その翌日から現場をもらいユタカペイントの始まりです。
ユタカペイントになるまで
独立をして1.5トンのトラックを20万円で買い、足場の部材を10万円で購入しました。
私の預金残高は0円に等しくなりました。
もちろん自家用車など無いです。
トラックでどこまでもドライブしていました。
初めての仕事は、住宅の塗り替えの専門店の下請けでした。
今でも鮮明に現場の場所や作業を覚えています。
そんな順調な日々は2年ほど続きましが、元請けの会社が群馬から撤退し、仕事が激減しました。
仕事が無くなり、生活ができない・・・。
困った私は親父に相談し、仕事先を紹介してもらいました。
今度は、大手ゼネコンや工務店の下請けをしている塗装業者の二次下請けの仕事です。
大きな工場、マンションなどあらゆる現場がありました。
私は29歳になり会社の人数も増え、独立当初のユタカ建装から有限会社ユタカ工業へと法人化し、会社になりつつありました。
師匠でもある親父が体調を崩し、入退院を繰り返すようになりました。
一度は現場に復活をする事ができましたが、再び入院する事に・・・
病院での闘病生活もかなわず、春の暖かい日に親父は他界してしまいました。
本当に悲しい出来事でした。
私にとって大きな出来事であり、また大きなターニングポイントとなる事はいうまでもありません。
そして、現在。
有限会社ユタカ工業から株式会社ユタカペイントに生まれ変わりました。
15名のスタッフと共に住まいの塗り替えに励んでいます。
技術不足と言われる時代ですが、これからもスタッフをたくさん増やし、技術を教え育成していきたいと考えています。
そうする事で社会貢献が出来ると私は強く確信しています。
ユタカペイントはこれからもお客様に幸せになっていただけるように、安心・安全なサービスを提供し続ける事をここにお約束いたします。
地域の皆様さまから信頼される会社を創っていきます。
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